「絶望こそ死に至る病である」
この思想は、19世紀の哲学者・キルケゴールによって提唱されました。キルケゴールは著書『死に至る病』のなかで、さまざまなタイプの絶望や、絶望から解放される方法を教えてくれます。
『死に至る病』のポイント解説。キルケゴールに興味のある人は、ぜひチェックしてください。
キルケゴール『死に至る病』のあらすじ
『死に至る病』は、1849年にデンマークで出版された哲学書。初期の大作『あれか、これか』『不安の概念』を経て発表された、キルケゴールの代表作です。
『死に至る病』は新約聖書の引用から始まり、
・死に至る病とは絶望である
・絶望とは罪である
の2部で構成されています。
キルケゴールは、「絶望」は人間だけが患う病気であり、人間は動物以上の存在であると説きます。そして、「絶望していない人間はいない」として絶望を3つのタイプに分類し、絶望が深まるとどうなってしまうのか、その絶望から解放される生きかたを示すのです。
抽象的な表現も多く、難解な哲学書のひとつではありますが、「絶望」という人間にとって普遍的なテーマを扱っており、現代人にも通じる内容といえるでしょう。
絶望研究者・キルケゴールの生涯
キルケゴールの生涯について把握しておけば、『死に至る病』をより深く理解できます。生まれ育った環境や家族関係、絶望の研究に興味をもつようになった経緯を見ていきましょう。
デンマークの裕福な商人の家に生まれる
キルケゴールは1813年、デンマークのコペンハーゲンで、富裕な商人の家庭に生まれます。キリスト教国のデンマークは、敬虔深く規律の厳しい社会でした。
キルケゴールの父・ミカエルも熱心なクリスチャンです。畑を耕してなんとか生計を立てる貧しい生活でしたが、ある日を境に幸運に恵まれ、コペンハーゲンで屈指の大商人になります。
7人の子どもにも恵まれ、順風満帆な人生のように見えました。
厳しい父に期待され英才教育を受ける
ミカエルは、末っ子のセーレン(キルケゴール)に才能を感じ、厳しい英才教育を受けさせます。徹底的に倫理学を教えこみ、キルケゴールも健気に従っていました。
学校の成績は飛びぬけていましたが、厳しすぎる教育によって内向的な性格になり、強い孤独を感じるようにもなっていきます。
ヘーゲル哲学との出会い
17歳になったキルケゴールは、父に従って牧師になるため、大学では神学と哲学を学びます。
そこで出会ったのがヘーゲル哲学でした。
当時、ヘーゲル哲学はとても人気があり、キルケゴールも大きな影響を受けます。ヘーゲル哲学は、「絶対精神」という観点から世界を捉えようとするもの。
絶対精神についてはあとで詳しく解説しますが、「すべてを認識するもの・宇宙の原理」といった存在です。キルケゴールは、ヘーゲル哲学をきっかけに自分の思考を展開させていきます。
父からの衝撃的な告白
悩みながら思考を深めるなか、父との関係にも変化が訪れます。ある日、キルケゴールは父から秘密をうちあけられるのです。
生活が苦しいときに神をののしってしまったこと、家族の死の理由、そして衝撃的なキルケゴールへの余命宣告…。
19世紀は「科学」が神への信仰を奪いはじめた時代。教会は世俗的になり堕落していました。救いを求めても、教会は心の救済機関としての役割を失っていたのです。
「もう勉強する必要はない」
何をやっても報われないことに嫌気がさした父にそう言われ、キルケゴールは信じていたものを突然失ってしまいました。
退廃的生活から「単独者」へ
父の突然の告白に衝撃を受け、キルケゴールは放蕩生活を送るようになります。何もかもがバカバカしいと感じていたのです。
ただ、投げやりになりつつも、自分の人生を取り戻したいと思っていました。そしてある日、キルケゴールの考え方は大きく変化します。
「自分は贖罪のために存在している」
「償いを続け孤独に歩むことこそが自分の使命」
このように考えを飛躍させ、教会には頼らない「単独者」として、神のもとで運命を切り拓く道をみつけました。
運命の出会いと婚約破棄
キルケゴ―ルは、再び自分と向きあい始めます。父の死の間際には和解し、大学の勉強にも精をだしました。社交の場にも顔を出すようになったキルケゴールは、良家の少女・レギーネと出会って恋に落ち、大学卒業後には婚約をします。
しかし、贖罪にとらわれて目の前にある幸せを受け入れることができず、婚約を一方的に破棄してしまったのです。
その後キルケゴールは、人間の苦しみについて考えるようになり、「私たち」はどう生きていくべきか、自分の思想を体系化するために執筆を始めます。
キルケゴール『死に至る病』を理解する3つの手がかり
ここでは、難解と言われる『死に至る病』を読み解くための手がかりとなる、弁証法・絶対精神・実存主義を紹介します。
1.弁証法|キルケゴールに影響を与えたヘーゲル哲学
キルケゴールは、ドイツ観念論の巨人・ヘーゲルから大きな影響を受けました。ヘーゲル哲学によると、人間はある段階をくりかえして、より高い次元へ発展します。
この発展を理解するために、まずは「弁証法」を知っておきましょう。
弁証法を構成するものは次の3つ。
- 正:テーゼ
- 反:アンチテーゼ
- 合:ジンテーゼ
例として「美しい花が種を残す」ことについて考えてみましょう。
正(テーゼ):花は美しい
反(アンチテーゼ):花は枯れる
まずテーゼが存在します。しかし、すべての物事のなかには矛盾が含まれており、花はいつか枯れてしまいます。テーゼとアンチテーゼは対立しますが、実際は結びついています。この2つを本質的に統合したのがジンテーゼです。
合(ジンテーゼ):花は種を残す
花は種を残し、次の世代へと続いていきます。このようにテーゼとアンチテーゼの対立から、より高次のジンテーゼに導かれることをヘーゲルは、止揚:アウフヘーベンと表現しました。
2.絶対精神・世界精神|キルケゴールの反発
ヘーゲル哲学の「絶対精神・世界精神」も『死に至る病』を理解するうえで重要です。
【絶対精神】
「絶対精神」はすべてを認識する存在。人間の発展プロセスのゴールを決めています。
そのゴールに行き着くまで、自分の本質は自分自身から疎まれ続けます。自分のイヤな部分に目を背けた状態です。
「イヤな部分も自分なのだ」と、自分の本質を受け入れたとき、人はより高い次元へ発展します。アウフヘーベンをくりかえして、不完全だった自分は完全に解き放たれるのです。
内省的だったキルケゴールは、この哲学に感動しました。しかし、そこにたどりつくためには、まず世界を発展させて完全な社会を実現しなければならない、とヘーゲルは主張します。
【世界精神】
ヘーゲルは、すべての人々が矛盾なく調和する「世界精神」をかかげました。
個人よりも世界全体のことを考えたのです。個人の力だけでは、完全な状態にたどりつけません。
人類の歴史とは、戦争や革命などのさまざまな対立・混乱のアウフヘーベンをくりかえして、絶対精神が決めたゴールにたどりつくまでのプロセスなのです。
一時はヘーゲル哲学に傾倒したキルケゴールでしたが、そこに疑問を感じます。
ヘーゲルは、個人の主体性を無視している…。
キルケゴールは、世界精神なんて大袈裟なことよりも、一人ひとりの精神に関心を払うべきだと考えます。そしてヘーゲル哲学への反発を、弁証法的に発展させていくのです。
3.キルケゴールの実存主義|実存の3段階
一人ひとりの現実存在(=実存)を重視したキルケゴールは、人間のありかたを観察して、3段階に分けました。
【美的実存】
第1段階は、今が楽しければよいという「感性的な生きかた」です。
富や名誉、地位といったわかりやすい刺激を求めるのは、感性的な生き方といえます。
楽しい人生のようにも思えますが、常に外からの刺激が必要であるため、個人の主体性が薄れて自分をコントロールできなくなります。虚しさや孤独を感じる生涯になるでしょう。
【倫理的実存】
第2段階は、自分の本質について内省する「倫理的な生きかた」です。
自分自身に関わる全責任を引き受けて、自分が正しいと思う道を選びます。
誰のせいにもできない厳しい生き方ですが、環境に影響されてしまうのも事実です。突然家族が死んだり、事故で動けなくなったり、思いどおりに生きられないケースも多く、限界にぶつかります。
【宗教的実存】
第3段階は、「宗教的な生きかた」です。
自分の運命を自分で切り拓く「単独者」として、神のもとに立つ生きかた。
キルケゴールは、感性的な生きかた・倫理的な生きかたではなく、この宗教的な生きかたこそが、絶望からの突破口になると言います。
詳しくは後述します。
あなたの絶望はどのタイプ?絶望していない人間はいない
ここでは『死に至る病』のメインテーマである「絶望」について解説します。
絶望と失望のちがい
「絶望」と「失望」は似ているようですが、まったく異なります。
「失望」とは、ただ自分をとりまく環境や他人にガッカリしているだけの状態です。
「絶望」とは、自分が自分である責任を放棄してしまうこと。自分自身を選べるチャンスを捨て、望む自分であろうとしないことを意味します。
そして人間が本当に絶望したとき「死」が訪れる、とキルケゴールは言います。人間の精神、すべてを選択できる自由が死んでしまうのです。
絶望とは何か?3タイプの絶望
キルケゴールは、絶望についてより深く分析し、3つのタイプに分類しました。
タイプ1【快楽型】
快楽型は、感性的な生きかたからくる絶望です。
快楽的に生きており、自分の絶望にすら気づかない「絶望的な無知」。虚無感を埋めようとして、より強い快楽を求めますが、絶望から解放されることはありません。
タイプ2【逃避型と反抗型】
逃避型と反抗型は、自分の絶望を知っている本来的な絶望です。
逃避型は、本来の自分になろうとしない「嘆きの絶望」です。何をやっても無駄だ…自分はダメな人間だ…などと、自分の殻に閉じこもり、選択の自由と責任の不安から逃れます。
反抗型は、本来ではない自分になろうとする「怒りの絶望」です。誰も自分を理解してくれない…すべて社会が悪い…やつらが悪い…などと憤り、他人を攻撃することもあります。
タイプ3【極限型】
極限型は、自分の絶望を知り本来の自分を目指すが、それができない絶望です。
自分の絶望を知り、本来の自分を目指す道を意識しつつも、その希望にまで背を向けていることから「罪の絶望」ともいわれます。
『死に至る病』キルケゴールからの絶望への処方箋
ではどのように生きれば、さまざまなタイプの絶望から解放されるのでしょうか?
絶望からの突破口は、さきほど触れた実存の第3段階【宗教的実存】しかない、とキルケゴールは主張します。
宗教的な生きかた、つまりはキリスト教を信仰して飛躍するしかないのです。
ただひたすら神を信じて誠実に暮らす。救われる保証なんてどこにもない、それでも苦しみに耐える…。そして神の殉教者になることが絶望の終焉であると説き、キルケゴールは信仰のために生きたのです。
そこで難題が残ります。キリスト教になじみのない人々は、どうすればいいのか?
人間は精神である。精神とは自己である。
今回はキルケゴールの『死に至る病』について解説しました。
キルケゴールは、絶望から解放されるためには「宗教的に生きるしかない」と言っていますが、残念ながら、すべての人がキリスト教徒ではありません。
そもそも「信仰」とはなんでしょうか?
「信じる」とはなんでしょうか?
たとえキリスト教徒になったとしても、それを心から信じていなければ信仰とは言えません。
キルケゴールの思想には難解な部分も多いため、まずは読みやすい漫画がおすすめ。決められた宗教のない日本の、現代視点のストーリーで解説しているので、無理なく理解できます。
ぜひ、まんがで読破『死に至る病』を参考にしてみてください。