「自由業は不自由業」とは言い古された言葉かもしれませんが、子どもたちのなりたい職業の上位がユーチューバーであり、大人も自由業に憧れる気持ちが心のどこかにあると思います。
コロナ禍、リモートワークや副業が認められ、自由な働き方の幅が広がっているようにみえますが、いざ始めてみると不自由、閉塞感を感じる人が多いのではないでしょうか。
私たちにとって真に幸福な働き方とはどういうものか、自由業の代表的な存在でもある作家、明治を代表する文豪・夏目漱石が『道楽と職業』という講演で語っています。
夏目漱石と『道楽と職業』の時代背景
講演『道楽と職業』は、漱石が一切の教職を辞して、職業作家となった1907年(明治40年)から4年後に行ったものです。
漱石が考える職業論としては、道楽を仕事としたら社会に繋がってしまい、他人によって制約が生じ、道楽が苦痛に変化するというものです。
そう主張する漱石自身は職業とどう向き合ってきたのでしょうか。
40歳にして作家に専念
漱石は1867年(慶應3年)幕末生まれです。
明治と人生をほぼ一とした漱石。
江戸時代はかなり有力な名主の五男として生まれたものの明治に入り生家は傾き、養子に出されます。生家にもどされて高等教育を受け、文学を志すものの、なかなか作家として自立しようとはしません。
漱石の職歴を見てみましょう。
- 1892年|明治25年:帝国大学(現在の東京大学)文科大学英文科在学中に東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師となる。
- 1893年|明治26年:高等師範学校(現在の筑波大学)の英語教師。
- 1895年|明治28年:松山中学(現在の愛媛県立松山東高等学校)講師。
- 1896年|明治29年:第五高等学校(現在の熊本大学)講師、教授。
英国留学を挟んで第一高等学校講師、東京帝国大学文科大学講師を経て、1907年(明治40年)朝日新聞に入社し、40歳にしてやっと作家活動に専念します。
「私の個人主義」の時代
江戸から明治へと価値観が根底から覆ったなか、身分制度から解放され自由に職業を選べることになったとはいえ、好き勝手に選べるわけではありません。
事実、漱石が作家に専念するまでの紆余曲折を見れば明らかです。
別の講演「私の個人主義」では、個人主義が幅を利かせる時代でも、金や権力を好き勝手に行使し、義務というものを無視しては、国が成り立たないと説いています。
未熟な近代化の恩恵と苦悩が漱石にのしかかっていたのです。
夏目漱石『道楽と職業』をわかりやすく解説
『道楽と職業』の講演では、職業とは「人のためにする結果が己のためになる他人本位のものだ」と述べています。「自己を曲げるということをやらなければ成功はおぼつかない」。
一方、道楽とは「自己本位」なもので、職業は「他人本位」で、それが二つを分けるポイントであると述べています。
職業とは「他人本位」
職業とは「他人本位」のものです。職業とは人のためにするものであり、「人のためにする結果が己のためになる」報酬となるものです。
自分がやりたいことをやるのではなく、自分にとって不要なことを人のために行うからこそ成り立ちます。職業は世の中の好みや一般のご機嫌を取る所がないと成立しないものです。
職業は道徳を犯すことや義理を欠くこと、自分の趣味から言えば相容れぬことを行なわないといけない。
職業にすると「なんでも厭になる」ということが起こるのもやむを得ないのです。
道楽とは「自己本位」
「自己本位」とはすなわちわがままで、これほど道楽というものはないと言います。
わがままなためにその道で成功する職業は数少なく、存在するのは、科学者や哲学者、芸術家くらいと言っています。
世間や時代にあわせることなく、世間に顧みられずとも自己本位を貫き惨憺たる境遇で過ごす、職業として認められないほど割に合わない報酬で暮らす。
例えば南画家の池大雅やフランスの画家ミレーのように、生きている間は貧しい生活を送ったと事例を挙げます。
「己のない芸術家は蝉の抜け殻同然で、ほとんど役に立たない」と手厳しく語っています。
道楽を貫き通した漱石
漱石自身は小説を書くという道楽を貫き通しました。道楽を本職として追求したからこそ「道楽の職業化」ができたわけです。
とは言え、職業を道楽にすることは容易ではありません。それこそ職業それを全うするために世間のしがらみから逃れるのは簡単ではありません。
その苦悩を多くの小説の中で登場人物に仮託しています。
夏目漱石『道楽と職業』を漱石作品から見る
そもそも私たちは「自己本位」の道楽を徹底し「働いたら負け」などと考え、ニート的な価値観で生きることは可能でしょうか?
クリエイターと称することができたとしても、生活費は必要です。また、その成果物への誹謗中傷に耐え続けられるでしょうか?
道楽を職業とするのははなはだ厳しいと思えます。
また、「他人本位」の職業においても、存在を正当化しがたい無意味な職業、あえて言えば有害でもある職業に就くのはどうでしょう。
自分自身を誤魔化しながらブルシット・ジョブに就くとことは幸せでしょうか?
その問いは漱石の時代と現在も何ら変わっていないのです。漱石が創りだした小説の登場人物たちに色濃く現れています。
『坊っちゃん』の限界
初期の作品である『坊っちゃん』も職業が深くかかわっています。
坊っちゃんは母校の校長の誘いに「行きましょうと即席に返事をし」数学教師として赴任します。無鉄砲で子どもの頃から損ばかりしている、曲がったことが大嫌いな性格で、職場において軋轢を起こします。自己本位を通すのには限界があるのです。
また、赤シャツや野だいこのように本音と建て前をうまく使い分ける教師たちをこっぴどく痛めつけるなど、漱石の「職業」人への仕返しが描かれています。
『明暗』の小林の皮肉
『明暗』にも職業人の典型が登場します。
主人公・津田の友人の小林です。
喰うためなら朝鮮にわたるのもいとわない。金のためなら知り合いの絵描きの作品を津田にだまし討ちのように売りつけようとする。親に家計を頼っている津田に「余裕なるものの前に、頭が下げる気がしない」とまで皮肉交じりに言い放つのです。
『それから』の代助の仕事探し
『それから』の主人公・代助は道楽を体現するような人物です。
父の世話になり、書生や婆やを雇いながらも一切仕事をしていません。「食うための職業は、誠実にはできにくい」という考え方の持ち主です。一度は捨てた美千代のための金も親から借りようとします。
最後は美千代と暮らすことを決断し「職業を探して来る」といいながらも「頭が焼け付けるまで電車に乗って行こう」と思って終わるのです。
仕事は探せたのでしょうか?
番外・『或る阿呆の一生』にあらわれた芥川龍之介の敗北
漱石の弟子・芥川龍之介は東京帝国大学在学中から道楽を職業とし、『羅生門』や『鼻』など古典を題材にした作品を発表。漱石同様、朝日新聞と契約します。
芸術至上主義的な作品を生み出してきたものの、その後は私小説的作品が中心となって生活を切り売りしていきます。
遺書でもある自伝的小説『或る阿呆の一生』の最終章「敗北」では、その日暮らしの生活を嘆くのです。
「職業の道楽化」を体現した本多静六
最後に「人生の最大の幸福は職業の道楽化」という名言を残した本多静六の言葉を紹介します。
本多は漱石より一つ年上です。苦学して東京農林大学(現在の東京大学)の教授となり、日本の「公園の父」と言われています。
投資家としても有名で、匿名で多額の寄付も行っていました。
あらゆる職業はあらゆる芸術と等しく、初めの間こそ多少苦しみを経なければならぬが、(中略)一意専心努力するにおいては、早晩必ずその仕事に面白味は生まれてくるものである。
本多静六『私の体験社会学』
一度その仕事に面白味が生ずることになれば、もはやその仕事は苦痛ではなく、負担ではない。
歓喜であり、力行であり、立派な職業の道楽化に変わってくる。
漱石のような道楽が職業になったものとは違い、前向きで、努力に勝るものなし。継続こそ力なりというということでしょうか。見習いたいものです。
記事執筆:平野秀幸(ひらの ひでゆき)
フリー編集者。講談社在職中に少年少女漫画から週刊誌、エンターテイメント誌など多くのジャンルを手がける。円谷プロダクションのアドバイザーを経て、老舗文芸出版社の春陽堂書店にて江戸川乱歩作品のコミック版シリーズをプロデュースするなど活躍中。
構成・編集:Teamバンミカス