松本楼は、日比谷公園の真中にあるレストランだ。
夏目漱石の小説『野分』では「西洋料理屋」と書かれ、作中に名前こそ出てこないが、今も公園の森のなかにたたずんでいる。
公園の真中の西洋料理屋へ引っ張り込んで、眺望のいい二階へ陣を取る。
夏目漱石『野分』
松本楼と漱石の人物描写

『野分』の中心人物・高柳周作は、高等学校を卒業し、作家を目指している。
高柳を元気づけるために、裕福な友人・中野輝一が食事に誘う。その「西洋料理屋」が松本楼だ。
「大いに西洋料理でも食って―そらビステキが来た。これで御しまいだよ。君ビステキの生焼(なまやき)は消化がいいって云うぜ。こいつはどうかな」と中野君は洋刀(ナイフ)を揮って厚切りの一片を中央から切断した。
夏目漱石『野分』
そのビステキ(ビフテキ)を食べ終わった後、高柳はとんでもないことをしでかす。
火のついた煙草「敷島」を二階から放り投げて、食事が終わって先に出ていった実業家の帽子に落としたのだ。
呑みかけの「敷島」を二階の欄干から、下へ抛(な)げる途端に、有難うと云う声がして、ぬっと門口を出た二人連れの中折帽の上へ、うまい具合に燃殻が乗っかった。
夏目漱石『野分』
男は帽子から煙を吐いて得意になって行く。
「おい、ひどい事をするぜ」と中野君が云う。
「なに過ちだ。―ありゃ、さっきの実業家だ。構うもんか抛(ほう)って置け」
体の調子もよくなく、結核も疑われている高柳。
自作の小説は完成するあてもなく、翻訳の下働きで糊口をつなぐしかない高柳の、世を拗ねた姿がリアルに描写されている。
松本楼のレストランで逸品を味わう
雨に濡れ色鮮やかな日比谷公園の木々。
訪れた日はあいにくの雨だったが、日比谷門から大噴水の横を抜けると松本楼が現れる。

現在は2階にレストランはなく、3階の仏蘭西料理ボア・ドゥ・ブローニュへ。あらかじめコースを予約しておいた。
ダイナースフランスレストランウィーク(ランチ)はオードブル、メインディッシュ、カフェのお得なセット。
松本楼|ボア・ドゥ・ブローニュの前菜

前菜は森のレストランにふさわしい野菜のテリーヌ風。旬の野菜に魚介を組み合わせて、ゼリーで寄せ、キャベツで包んでいる。
サラダと魚が楽しめるおしゃれな一品だ。
夏目漱石も食した松本楼のビフテキ

メインはいくつか選べるコースだったが、もちろんビフテキをチョイス。
焼きはミディアムレア。
見た目からはじゅうじゅうと焼きあがった感じがなく、やや拍子抜けしたが、ナイフを入れ口に運ぶと、ミディアムレアの肉の赤さは残しつつ、火が通っている絶妙な感じ。
デミグラスソースをつけると味変して美味しいが、ビフテキそのものでも柔らかく十分に楽しめる。
老舗西洋料理というとどうしても古臭いイメージがあるが、伝統、格式にくわえ、最先端のテクニックを見事に取りいれる工夫がなされている。
まさに恐るべし松本楼、という印象だ。
日比谷公園でカジュアルランチ

気になった1階の洋食・グリル&ガーデンテラスに。テラス席で楽しもうと、天気の良い日を選んで再訪した。
3階のレストランがおしゃれして食べたい場所とすれば、こちらはまさにカジュアル。昼下がりの東京で森林浴と食事が楽しめるとはなんという贅沢。

松本楼の選べるビッグプレート洋食3種(ステーキ・クリーミィカニコロッケ・海老フライ)はこれぞ洋食。

野菜をふんだんに使ったビーフシチュー。
夏目漱石「余は今食事の事のみを考えて生きている」

夏目漱石といえばイギリス留学中、食事が不味くて神経衰弱になったという説が有名だが、実はロンドンに着く前から胃弱であった。
帰国後も英国流の食事やお茶を楽しんでいる。
松本楼だけではなく、上野精養軒、神楽坂の田原屋、四谷の三河屋などにも足をはこんでいた。
遺作となった『明暗』にもフランス料理店が登場している。
津田がそこを知りだしたのもつい近頃であった。
夏目漱石『明暗』
長い間仏蘭西(フランス)とかに公使をしていた人の料理番が開いた店だから旨いのだと友人に教えられたのが原(もと)で、四五編食いに来た
この店が今もあるのかはわからないが、あったら食べにいきたいところだ。どなたかご存じの方がいればお教えいただきたい。
日比谷松本楼
松本楼のホームページ
東京都千代田区日比谷公園1-2
日比谷線・丸の内線【霞ヶ関駅】徒歩2分
三田線・千代田線・日比谷線【日比谷駅】徒歩2分
この記事を書いた人 平野 秀幸 (ひらの ひでゆき) フリー編集者。少女少年漫画から週刊誌、エンターテイメント誌など多くのジャンルを渡り歩く。ビートルズ、歌舞伎、食、女性を愛す。ただいま、漫画シリーズを企画準備中。
