上野の森に立つ上野精養軒。
本店レストラン「創業150周年記念メニュー」を食しようと上野駅に着いたのは、午後6時。
すっかり暗くなった上野の山を登り、レストランにたどり着いたところ、なんとラストオーダーは午後4時(土日は午後5時|グリルフクシマ午後8時・月曜定休)と告げられ出直すはめに(笑)
上野精養軒は現存する日本最古の洋食店

上野精養軒は、1872年(明治5年)、丸の内馬場先門前に「精養軒」として誕生したことから始まる。
明治の元勲・三条実美、岩崎具視の支援を受け、実業家・北村重威が創業した。ところがなんとその開店当日に近隣のもらい火事で焼失してしまう。
その後、木挽町での仮営業後、築地に移転し「精養軒ホテル」(築地精養軒)となる。今その跡地には時事通信社ビルが建っている。

上野恩賜公園開設から3年後の1876年、支店として開業したのが今の上野精養軒だ。
関東大震災で築地精養軒が焼失し、上野精養軒が本店機能を持つようになる。つくづく精養軒は火事に祟られている。

さて、谷崎潤一郎と精養軒の浅からぬ因縁とはなんだろう?
その話はデザートに取っておくことにして、再訪した上野精養軒の「創業150周年記念メニュー」をいただくことにしよう。
ビーフカツレツは鉄板の味わい

本日の冷製スープは桃。日本人の我々にはあまりなじみはないかもしれないが、なめらかで桃の香りがほのかにして、食欲をそそる。
メインディッシュはビーフカツレツ。

ドミグラスソース・マデラ酒風味にライス。 オーストリア料理のシュニッツェルやミラノ風カツレツを想像したのだが、肉は平たくはたたかず、部厚いままに衣をまぶして焼きあげたものだった。
ナイフを入れると、しっかり火は通っているのだが、肉の赤身はしっかり残っておりとてもジューシー。

上に載せられているバターを溶かしながら食べるとまた味が変わって楽しいし、もちろん甘さを抑えたドミグラスソースは、鉄板の味わい。

食後は特製イチゴのババロア・バニラアイス添えに、コーヒーまたは紅茶だが、谷崎デザートの前に、昔懐かしいプリンアラモードを追加注文。
濃厚な卵味のプリンと少し苦みのあるカラメルソースの相性も良く大正解だ。
いよいよお待ちかねの谷崎潤一郎と精養軒、因縁の濃厚デザートです。
上野精養軒と谷崎潤一郎の創作エネルギー
谷崎が「食」にどん欲なことは知られているが、もっと有名なのが「女性」への欲だ。
日本橋蛎殻町(現・人形町)生まれの谷崎だが、生家は裕福だったものの、父が事業に失敗してしまう。東京府立一中(現・東京都立日比谷高校)在学中には学費にも事欠くようになる。

そこで手助けをしたのが築地精養軒の第三代目・北村重晶だ。彼の家に書生兼家庭教師として住みこむことになる。谷崎15歳であった。
北村の援助で無事、第一高等学校(現・東京大学)に進学することができたのだが、そこで事件が起きる。旅館から行儀見習いにきていた穂積フクとの恋愛が発覚するのだ。そのため北村家を追放されてしまう。
谷崎の弟・精二がこう書いている。
私が発電所から帰って二階の部屋にはいろうとしたら、意外にもそこに兄と若い女性が話し込んでいた。
谷崎精二『明治の日本橋・潤一郎の手紙』
(中略)
その若い女性が兄の愛人であることは察しがついたが、その愛人はやはり北村家を出て箱根の実家へ帰っているとのことだった。朝の八時に日本橋の兄の処へ着くのは余程朝早く家を出たのだろうし、突然訪ねてきたのは何か重大な事件が起こって兄に相談に来たに違いなかった
新樹社 1967
ということは、北村家を追いだされてからも関係は続いていたということか。
谷崎の飽食な女性遍歴は精養軒がなくては始まらなかったのだ。その後の千代夫人を佐藤春夫に譲るスキャンダルや、のちに夫人となる松子との不倫騒動など限りない。
精養軒は鬼門かと思われるのだが、大文豪・谷崎はおかまいなし。ことあるごとに精養軒を利用しているようだ。
名作『痴人の愛』にも登場している。
同僚の一人の波川という技師が、今度会社から洋行を命ぜられ、その送別会が築地の精養軒で催されたことがありました。
谷崎潤一郎『痴人の愛』
(中略)
会食が済み、デザート・コースの挨拶が終わり、みんながぞろぞろ食堂から喫煙室へ流れ込んで、食堂のリキウルを飲みながらガヤガヤと雑談をし始めた
関東大震災を機に関西に移住する谷崎だが、色欲、食欲が創作のエネルギーであることは終生変わらなかった。
上野精養軒 本店
上野精養軒のホームページ
東京都台東区上野公園4-58
京成本線【京成上野駅】徒歩5分
千代田線【湯島駅】徒歩9分
この記事を書いた人 平野 秀幸 (ひらの ひでゆき) フリー編集者。少女少年漫画から週刊誌、エンターテイメント誌など多くのジャンルを渡り歩く。ビートルズ、歌舞伎、食、女性を愛す。ただいま、漫画シリーズを企画準備中。
